カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。
2018.02.10
ずいぶん昔のことです。私が20歳になったか、あるいはならないかの頃、もう30年以上経つ昔のことです。日本は昭和の終わりのバブルに沸いていた頃のことです。
父と母でそれぞれ持っていた不動産を同じような時期に売りました。
父は土地を持っていました。
母は収益一棟マンションを持っていました。
正確にはいくらか時期の前後はあるのですが、父は所有している土地を売り、中古の収益一棟マンションを購入しました。
購入に現金を全投入したのでしょう。「不動産取得税、払えない。」と、私にこぼしました。
そして、もう1つ、父がこぼしたこと。「家賃が入らない。滞納している人がたくさんいる」と。事業経営といったことに合わず、他人にお金の請求をすることなど最も苦手なタイプでした。買ったはいいものの家賃の督促をしなくてはならず、それができなくて苦悩していたことでしょう。なすすべもない父。大変な物件を買ってしまったと、後悔したことでしょう。
一方、母は以前中古で購入して保有していたその収益一棟マンションを売りました。時期が良かったことから、買った時より高い価格で売れました。借入の返済も順調に進んでいたため、手元にかなりの額が残りました。
父はその後ほどなく、買ったばかりのあの収益マンションを手離しました。
父の投資は、完全に失敗しました。周囲のすすめで、吟味もしないで、言いなりに買った一棟マンションの投資の結果は。プラスはなく、しかも土地を失ったという、あってはならないレベルの失敗だったことでしょう。
父が買わされた収益マンションは、相当に価格が底上げされた物であったと想像しています。素人相手に、悪だくみする連中は、当時はたくさんいました。まだ大人とも言えない私でしたが、その私でも、父が型にはめられているだろうことは、ぼんやりながらも想像がつく出来事でした。
ちなみに、当時の私はまだ「型にはめられる」と言った言葉は知りませんでした。大人として社会へ出て、こうして不動産業を営む中で、その意味がよくわかる言葉となりました。
バブルはたしかに、その数年後に崩壊しましたが、父が財産をなくしたことと、バブルの崩壊は関係ないでしょう。父は世間知らずだったから、不動産を始め、財産をなくしたのだと思います。
母はその後、ずいぶん経って、母が所有し、駐車場として一括で貸付けていた自宅周辺の土地を売りました。この時は日本の不動産市況としては全体的に時期は抜群ではなかったと思われますが、大きな道路が付き接道する土地となるなど、便利な環境に変わったということが好材料となり、いい数字で売れました。
母がこの時売った土地は、父がかつて売った土地の連続した土地でした。父と母が売ったこれらの土地は、私が生まれる前から「幹線道路が付く」と言われていたらしいです。しかし、30年経っても付かなかったのが本当に道路が付くことが決まった時、父は売ることとなりました。そして、滞納者で混乱しているあの収益マンションに買い替えたのです。
それまでに、大手不動産会社がこのあたりの地主に土地を「売ってほしい」ときたことがあるとか。
付く付くと言われて付かないので、不動産会社に売り出す近隣の地主もいたそうです。
道路は父が売った土地に対して有利に付くはずでしたが、母の持った土地には、その後、速やかに別の道路が付くこととなり、価値は思いがけず上昇しました。母は持ち続けて、駐車場として収益も得ながら、このように状況がさらに好転してから土地を売りました。
母は、市況、状況、様子を見ながら、また自分自身の年齢や状態なども加味しながら、何回かに分けて、売却しました。途中、購入した物もありますが、そちらも年齢などに合わせてまた売却し小さな物へ買い替えるということもありました。
母はもう老人として十分に年齢を重ねていますが、今も元気で、前向きに暮らしています。
母は、物件の売却によって得た現金の一部を元手に、老後の生活設計として、投資信託を始め、今なおそれで、贅沢はできないものの生活に不自由はない程度に生活費が捻出できています。
不動産のおおよその割合(価値)で言えば、母の方が大目の按分で当時所有していました。母が不動産に関しては持っていたものが多少大きかったとはいえ、社会で働きに出たことがあるといえばパート勤めだけ、といった母。その母が80歳近くなり、今でも昔、不動産を売却した時の現金を元手に、現在の生活を成り立たせていること。その母は、計画的であったということのほか、いくらかの幸運が味方したということもあったのではないでしょうか。
なぜなら、いくら不動産を所有していても、またそれを売却して多額の現金を持ったとしても、一気に、一時に、すべてを失う人や出来事といったものは、それほど少なくないと思っているからです。
兄と私のいずれも大学を卒業できたのは、母が自分の財産をうまく利用して、お金の工面をしてくれたからです。
父は、一発勝負であったことだけではなく、不動産のこともわからないのに勧められた物件の契約書に、言いなりに押印して、人生が変わってしまった。
ところで、母はその土地に建っていた築30年を越える長屋の入居者の方々に立ち退きをお願いしました。
その際、一世帯に対して、多い方には1000万円単位の立ち退き料を支払ったそうです。その長屋(貸家)が旧法の賃借権であったことから、正当事由のない立ち退きであることを理由に、要求金額が跳ね上がったのです。それまでいただいていた家賃は、1万円くらいまでの話。そこに長く(といっても最初からではなく、10年以上といったところです)住んできたからということで、一部の方が立ち退きに簡単に同意してくれず、金銭的支出が母の納得いく範囲を超えて大きくなりました。この立ち退きでは、母は弁護士に依頼し交渉に当たってもらっていました。
母は、たいそう悔しがり、それ以降、どんなに良さそうな借地権物件などが売りに出ても、ぜったいに購入することはありませんでした。
ちなみに、この旧法物件は、祖母(母の母)から相続したものでした。
投資がうまくいっているように見える母ですが、上記のようなこともあり、いつも得ばかりしてきたわけではないです。ただ、母は、悔しい思いをすると、一生でも忘れない教訓に代えて、学んできているようです。
記憶にある母の失敗として、お金を貸して戻ってこなかったことがあります。私が高校生の頃、やはり30年以上もの昔のこと、けっこうな額を貸して、裁判して半分戻ってきましたが、半分失いました。
ある日、自宅へ帰ると、ある人が憂鬱そうにしている母に対して、粘っていました。言葉を濁している母に対して、押しが強そうでした。
その結果、母はお金を貸して、失いました。
私は、まだお金のことも疎い子供でしたが、母がこの時、断り切れずに厄介ごとに巻き込まれてしまっているだろうことは想像が容易につきました。「お金を貸したらいけない」だろうこともわかりました。
父の失敗の意味が知りたくて、不動産屋になりました。
不動産で失敗すると、その後立ち直りがききづらくなることの本質が知りたかったのかもしれません。(もっとも父の場合は、不動産の失敗だけで、その後の人生がうまくいかなかったわけではないと思います。)
私は父のように、人生の中で、不動産に関して素人でいいように騙されたりしたくはないという思いがありました。自分自身がしっかりしなくては、すべてを失う怖さが、不動産にはあるのだと父を見て感じていたから。
だから、不動産を知りたくなりました。
宅建を勉強して、近所の不動産会社(不動産屋さん)に勤めました。それから、不動産や契約のことばかりでなく、お金のこと、お金を貸すこと借りること、こういう、お金にまつわることをわかっていたいと思いました。
父が不動産の失敗から、必要な財産やお金をなくしたように、母がお金を貸して戻ってこなかったように。人は人生で、大切なお金を、その大切さを身に染みて理解していないがために、そして同情心や気弱さ、優しさなど、諸々の気質と経験不足によって、失います。
私はお金をたくさん持てないと人生を生きていけないとは思いませんでしたが、世間知らずで、ノーと言えず、自分の生きていくためのお金まで失うようなことにはなりたくないと思いました。
不動産の業務を自分で経験することを通して、いろいろな人を見ることで、「命の次に大切なお金」であることを理解することもできました。
だから私は不動産屋になって良かったと思います。
不動産業は、お金で笑い、お金で涙する世界です。私は、お金の重みがわかる人生を生きていこうと思います。
昭和の終わり、バブルの当時、父が土地を売り、問題の収益一棟マンションを買った頃のこと。
近所の家のおじさんが、自宅以外のすべての土地をなくしました。数億円の価値がありました。とても優しいおじさんでした。ある日、遊びを知らない真面目一方の節約家だったおじさんのところへ、車で送り迎えをする人たちが出入りするようになりました。
楽しい遊びでもてなされて、数億円なくしました。借りてもいないお金を借りたことにされたのでしょうか。土地の移転登記が済み、おばさんは働きに出るようになりました。大学生だったお兄ちゃんは大学を中退し、社会人になり勤め始めました。高校生だった妹は、高校を中退し、近所のスーパーでレジ打ちを始めました。おじさんは農業を営んでいましたが、土地を失ったので、する仕事をなくしました。自宅以外は全部とられました。
おじさんが狙われたことは言うまでもありません。長期の休みに帰省して、母からおじさん家族の近況をきいているようなある日、おばさんが、大根を持ってきてくれました。大根はどこで作ったのでしょうか。自宅の敷地で作ったのでしょうか、それとも自宅と繋がる一部の土地に残りがあったのでしょうか。おばさんも、とても優しい人でした。
もっと私が大人であれば、そしてもっと意識をしていれば、おじさんが狙われていることを少し早くにも気づけたはずなのに。何もかも終わった後おばさんの顔を見た時、意識がぼうっとしました。涙も出なかったけど、きっと私の心は泣いていたのではないでしょうか。
このことも私が不動産業での修行を始める心の大きなきっかけの一つになっていると思います。不動産のことを知って、身近な誰かが人生苦に陥りそうになった時、防げる力が持ちたいと思いました。
だから、私は今もまだ、不動産業界に身を置き続けています。
書くことを武器にしたいと、憧れだったコピー&編集者を最初の仕事にして全うできず約4年で挫折。その後ずっと不動産業と関わっています。不動産屋は口がうまいと言います。うまいかどうかわかりませんが、私も口は滑らかになってきたのか、昔よりは話好きになった気がいたします。
そしてこの20年、不動産業に関わって生きてきて、私自身、不動産、ひいてはお金、ひいては人に対して人間不信になりそうな思いをすること、あの時のあれはあんまりだったなと、乗り越えた今だからこそいいですが、ひどい目に合ったと思う出来事などもありました。それも経験の一部として言えるのは、幸い、なんとか今も元気でやれているからだと思います。
おじさんも父も狙われました。不動産を持っていて、世間知らずの人は、用心が必要です。父は売らされ、買わされ、また売らされ、すべてをなくしました。おじさんは、行ったこともない華やかな飲み屋で豪遊してもてなされ、乗ったこともない黒塗りの高級車で送り迎えされ、その代償が数億円となりました。
ブログを書こうと思って、久しぶりに、大昔のこんな話を思い出しました。思い切って書いてみました。なにぶん大昔のことですので、若干記憶などに間違いがあるかもしれません。ただ、内容としては気にするほどの違いはないと思います。読み物として読んでいただければと思います。
今まで人に話すこともほとんどなかった出来事でしたが、こんな話でも読んでいただける方がいたら、そのうちのお一人の方にでも参考になるところがあるようでしたら、これほどうれしいことはないです。
不動産のこと、諸々、思い出話も含めながら、身近な大切な人に話をするように、これから、ブログを書いていきたいと思います。
ブログを読んでいただいて、もし不動産のことでお悩みがあり、思い切って相談してみようと思われる方がいましたら、よろしければ、私でよければお気軽にご相談ください。
お声をかけていただけました方には、不動産業者としてのこれまでの経験を生かして、お役に立ちたいと思います。
カズシン株式会社
代表取締役 山内和美