カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

浅草寺の観音様。上野不忍池を散歩します。見たり聞いたり、考えたり。

2021.10.15

散歩がてら浅草寺へよく行きます。

観音様が好きです。

上野公園、上野不忍(しのばずの)池もよく散歩します。

夏頃、ピンク色のきれいな蓮の花が咲きます。

 

浅草寺だけ、不忍池だけの日もありますが、浅草寺から上野不忍池へ、あるいは、上野不忍池から浅草寺へ、と歩くこともあります。

 

歩いていると、いろいろなものが目に入ってきます。建物、人、道路、看板、お店、色、木や葉、いろいろです。

人間は必ず死ぬ存在と言われています。死ぬということは、今まで見えていたものが見えなくなること、聞こえていたものが聞こえなくなること、感じていたことが感じられなくなること、考えられていたことが考えられなくなること、味わっていたものが味わえなくなること、匂っていたのが匂わなくなること。

そう考えると、死は対象(客観)を認識できなくなること。

死ぬことによって無くなるのは、対象を認識する力であるとするならば、私(人間)が死ぬということは、対象を認識できていた力が一切消えてしまうということに思えます。

であれば、生きているということは、たとえば対象を認識できている状態と考えてみます。

必ずしも、生きていることの定義は、このようにはならないでしょうが、1つの考え方とするならば、対象が存在しないならば、私(人間)も自分の存在を自覚できない気がします。対象が全くないならば、たとえば見ている自分、たとえば考えている自分に気づくこともできません。対象を通して、私(人間)は自分の中で起こる感覚の変化といったものを知るのではないでしょうか。

 

生きているということは、対象があってこそ気づけることであるとするならば、人は、何を見るか、何を聞くか、何を食べるか、何の匂い、何に触れるか、何を考えるか、によって、できているようにも思います。

自分自身が無くなるというよりも、死は、もはや認識できる対象は二度と現れることがない自分に究極の変化をした状態なのかもしれません。自分が消える(死)というのは、こういう状態を私はイメージします。

対象を認識できなくなれば、自分が消えたことも認識できなくなるとすれば、自分の死を自分で認識することはできないような気がします。自分が死んだということには気づけないのでしょう。

現実に死ぬ時には死をリアルに知る(死んだ自分を知る)ことはできないのが人間であるならば、対象を認識できなくなる日が来るその時までは、この世の中を見たり聞いたり思ったりして、自分自身についても気づいたりしながら、生(今)の時間に流されていく、それが人間ができる精一杯なのかもしれないと思うのです。

この世の中の中心は、自分ではなく、自分が認識している対象の方であり、対象に反応しながら影響を受けながら、対象とともにある自分の生の時間に包まれている、それも、一つの人間の姿ではないかと思うのです。

 

今見えるもの、今聞こえる音、それらによって、私は、この世の中を知り、私自身を知っていく。手を伸ばせば届きそうなのに決して届かない気がした、この世の中のこと。世界(世の中)に触れようと闇雲に手探りで、私は長く、世の中というものを探してきたような気がします。

世の中がどうなっているのか、なぜ、世の中はこんなにもむごく悲しいのか。

恐ろしい映像、聞こえてくる悲しみの声、今もなお、ニュースで残酷な出来事を知ります。

世の中は、あまりにむごい。だから、世の中(世界)は完全なものではなく不完全なのでしょう。

不完全な世の中では、明るいものが見える一方暗いものが見え、楽しい音が聞こえる一方悲しみが聞こえる。世の中(世界)は、自分が望むようにできているわけではなく、世の中の事情でできているのでしょう。

私が中心なのではなく、世の中(世界)が中心。見えるものが暗くても明るくても、聞こえるものが悲しくても楽しくても、世の中(世界)はばらばらの事実を個別にその都度、私(人間)に知らせてきます。

私とは、仮に太陽の周りを回る地球のような立場であるとすれば、公転、自転しながら、いろいろな景色を見ているような存在かもしれません。きれいな景色ばかりではなくつらいニュースを知ります。私が理想とした世界(世の中)には手を伸ばそうとしてもどこにも届かなかったけど、理想とは遠いものの手を伸ばせばそこにある現実の世の中というのは、ずっと前から存在していたのでしょう。

私が思うように世界(世の中)はできていない、とした方が実態に近いような気がします。私が見たり聞いたりするものが世界であるならば、それがいかに私の期待と異なるものであったとしても、そのまま、できるだけ、それらがあるように見たり聞いたりするべきなのでしょう。それらがあるように見たり聞いたりするならば、現実は悲しいわけですが、私はその悲しさをその通り受け入れることになります。想像を超えて残酷な世の中で起こることの悲しさを否定するのではなく、事実として認識することによって、問題のポイントが絞れることになり、次に私が見る対象をそのポイントに合わせて選別できる変化を起こし、私の中で気づきが根付くとともに、いずれ同じように思う人が多くなり、世の中はそれに応じて気が付くと変化している、そういう循環があるような気がします。

できるだけありのまま見たり聞いたりする私であったとしても、様々に描かれる自分の思いに動かされながら、見る対象、聞く対象を自らも探していくものでしょう。

対象が中心ですが、対象に影響を受けつつ、変化していく自分もまた、自分の中では中心となります。

世の中(世界)の中心は私ではないものの、世の中に影響を受ける私たち人間もまた、世の中に影響していく。

死とは、影響を受けることがなくなった私(人間)が、同時に対象(世界)に影響を与えることもできなくなった時に訪れるものと言えそうです。

生きているということは、世の中(世界)から影響を受けながら、数の力はいるものの自分もまた世の中に影響を与えることができる、という関係にあるように思われます。

手が届きそうで届かなかったのは、私の理想の世界であって、世の中(世界)はいつも、そこに今、そのものがあるように存在している。そういうことであったような気がいたします。

 

コロナ禍が続き、とくに世の中が不安になったことも影響しているのでしょうか。悲しいニュースが多いです。

人間は繰り返し間違ってきていますが、間違う一方、改善や前進もしてきています。

気が付くと、古い時代では考えられなかった価値観が今では常識に近づき、それによって、ようやく平等が得られている人がいます。早急な変化が望ましくても叶わないことは多いですが、たしかに、世の中は、時間をかけつつ、新しい価値観へと変化を遂げているようです。

後退することはあったとしても、長い時間をかけながらある時振り返れば、問題が遠くなったと感じる。世の中も、私(人間)も、困難を乗り越えて変化していこうとする。人類というのは、多くの間違いをする一方、希望を持って変化していこうとする強さがあるのだと思います。できることなら、悲しいニュースが事前に防げる手だてが次々に確立することを願います。

コロナウィルスの感染者の数が減りました。

浅草のホテルに灯りが戻ってきました。浅草寺に訪れる人も増えてきました。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美