カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。
2021.08.02
世の中(この世界)には、『法則』があり、例外はあるようで無くて、ずっとそうではないと思ってきたのだとしても、結局「必ず、そうなる」。それがこの世の中なのだと思います。
一方、人間は、努力で隠れた才能を開花させ、夢を実現していくことができる存在です。
自信や暗示の力もプラスに働き、人は、鍛錬やリハビリによって、能力や体力を向上させたり回復させることができます。
この世界(世の中)と人間(個人)は別のものであり、世の中は人間のことを気に留めていないのでしょう。
たとえば、坂の上から、大きな石が転がり落ちてくる、ちょうどその時通りがかったその人間(個人)に石が当たり、その人がダメージを受ける。
人間(その人)から見れば、避けようがなかった不運だとして。この世の中(その石)からすれば、石からすればですが、坂を転がった、のは自然なこと。しかし、通りがかったその人は不運にも転がってきた石に押しつぶされた。世界は人間のことを気にしていないし、人間が不運だとも思わないし、世界に不運が存在しているともならない。しかし、人間(その人)の側からすれば、努力で避けようがなく、不運としか言いようがないことがあります。
飛行機事故で墜落すると乗る前にわかっていれば乗る人もいないのでしょうが、不運なことに、その飛行機に乗ってしまうことがあります。事前にこの飛行機には乗らない方が良いとの選択は思いつかないものでしょう。乗る人は避けようがないとしても、チェック体制を徹底していれば防げたかもしれない事故とも言えるでしょう。幾重のチェックミスが重なった結果の大惨事となったとしても、事故が起こったということは時間の問題で言えば、(起こった以上)その事故はその時点で起こらないということにはならなかったのでしょう。
そうしたチェック体制に不安がある飛行機会社の飛行機には乗らない、というのは、自分を守るためにとれる一つの選択だとは思いますが、飛行機事故だけではなく、この世の中では『不運』に遭遇することはあります。可能性として不運は付いて回る。
人間は努力をする存在ですが、この世の中(世界)は人間の努力を考慮せず、法則通りに動き、法則通りに止まり、人間には関わらないのだとして。
人間(少なくとも私という個人)とこの世の中(私以外)は別のものだと思います。私は努力をして、直観的に信念をもって未来を選択しているつもりですが、この世の中は、そうした私には関わらず、法則通りに進めている。法則通り(坂から石が転がってきた)に人間に不運が起こった(その石に押しつぶされた)時、この世の中は責任をとらず、被害にあった人間(その人)やその人の周囲の人たちに苦しみや悲しみが生まれます。そうした苦しみや悲しみが不運から生じるのが人間の一生だとすれば、人間は苦しみや悲しみを軽減したくて、『努力』をする存在なのではないでしょうか。努力をすることによって、知識を持ったり、知恵を持ったり、体力を付けたりすることによって、不運を避けたり、不運に打ち勝とうとする。人より少しでも苦しみの少ない人生を生きるためには、努力が有効に働くという意識が私たち人間には備わっているような気がします。だからこそ、人は、鍛錬し、努力を続けることができる。努力をすることで、少しでも幸運になろうとする(少しでも不運から免れようとする)存在が人間なのではないかと思います。
そうした人間の願いとは無関係に、不運が避けられないのが人間の限界なのでしょう。
「不運を避けたい、幸運を得たい」という人間の願望は、この世の中(世界)の法則とは折り合いがつかず、世界は冷たく、厳しく、人間の思い通りにはならず淡々と進んでいきます。
そのため、宗教や、占いや、時に詐欺まがいな商売が生まれ、なくならないのでしょう。
不運を避ける方法や幸運を得る方法は誰にもわからない、未来のことは誰にもわからないはずです。多少でもわかるのだとすれば、自分自身が一番わかっているのではないでしょうか。自分自身の中にあるものを感じて、人は未来を予測し、叶いそうな夢を実現しようとするものであり、自分の中に全くないものを望んだり、到底不可能なことをやろうと思ったりはしない、それが人間の姿だと思うからです。
誰にもわからないから、どうとでも言える。たとえば、うまくいったらそれはその方法のおかげであり、うまくいかないのはその人の努力不足。事実として示すことはできないのに、不安な人は、偽りに騙されて、縛られてしまう。
幸運と不運を扱うのは、この世の中(世界)の法則を超えたその先の神秘の話として、人の気持ちをつかむものです。一方、この世の中(世界)に関係がないのが幸運と不運であり、人間にいかんともしがたいのが幸運と不運であることを思えば、とくに『幸運と不運』だけは、少なくとも人間の力は及ばないのだと思います。
ただし、それでも、不運に見舞われた時、その人の自分自身への尊厳(プライド)をかけて、過酷な不運を乗り越えていく人がいます。人は不運から逃げることはできないのかもしれません。逃げ切ることができないものだからこそ、不運に捕まった時、どれほど苦しくても戦う道を選ぶ。苦しさに耐え勇気を持って戦う道を選んだ人だけが、不運から抜け出せる可能性につながる、というのも人間の歴史から見えてくる気がします。
逃げずに戦うことにしたからといって、必ずしも不運から抜け出せるものではないとしても。選択としては、逃げない方が良い、ということに、理屈の上ではそう言えるところがあるのではないかと私は思うのです。「逃げるが勝ち」ということもあるのかもしれませんが、『不運』に関しては逃げられないものであるような気がしています。
逃げないで戦ったからこそ助かったという多くの人がいる事実に重きを置くと、それが真理にも思えます。仮に逃げて助かった人の方が多いというのが事実であれば、反対が真理になるのでしょうか。もちろん、災害などの時には逃げることが重要です。不運からは、逃げられるうちに逃げる、避けられるのであれば避ける、というのが賢明であり、それが難しかったゆえに不運に捕まり、その後は立ち直るために耐え忍び戦うという面があるように思うのです。
いずれにせよ、真理は一つだとするならば、過程で何が起こっているかはわかりませんが、助かったという事実が結果として起きる可能性が高いことを選択していく習慣を付けていくことが、不運から距離を置く生き方にもつながるような気がします。
人間(自分自身)の不運を考慮してくれないこの世の中(世界)にあって、抵抗する力、言いなりにならない力、あるいは摩擦を恐れない力、というものが、人が『不運』から受ける被害を軽減し、害を限定的にし、その後立ち直り、回復する過程を作り出す始まりになる気がします。
幸運を願い、不運を避けたいと思います。しかし、幸運や不運は自分にはコントロールできないものであるわけですから、運だけはどうしようもない、と考えるのが妥当だと私は考えます。
皆さんは、どのようにお考えになりますか。
カズシン株式会社
代表取締役 山内和美