カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。
2020.08.23
コロナに罹ってしまうと、この日本では、耐え難い差別を受けるようです。
匿名の人たちから受ける攻撃によって、追い詰められます。
コロナだけではなく、日本では、対象を絞り込んで、一斉に誰かを攻撃し始めるようです。
匿名の人は責任をとりません。攻撃に耐えかねて、命を絶つ人もいます。
自死を選ぶほどの絶望は、どれほど深い苦しみだったことでしょう。
それまで攻撃していた匿名の人たちは、自分が追い込んだ痕跡(書き込みなど)を消し、次の対象に乗り換えます。
日本人は、同調圧力を恐れるがゆえに、同調圧力をかける側に回るのではないでしょうか。
少数派になってしまうことの恐怖。
戦争に行った日本人や神風特攻隊と呼ばれた人たちも、「人を殺したくない」「殺されたくない」人たちだったことでしょう。
でも、戦争に行かないなんて言えなかった。自分だけ行かないなんて許されなかった、その時代、国民性があったのでしょう。
原爆の被害者の方たちは、その後の人生で様々な差別を受けたそうです。
今、医療従事者の方が差別を受けています。
経済が落ち込むと、人の気持ちは殺伐となります。
殺伐となった気持ちは、対象を見つけて、攻撃を始めるシステムが人間、日本人にはあるような気がします。
戦争が始まる時もそうだったのでしょうか。
日本人の「村社会」「島国根性」と言われる国民性には、違う人や違う考えを排除する性質があります。
攻撃される側になるのではなく攻撃する大多数に属しなくてはならないためでしょうか。
違う人を見つけると「ずるい」と言って、その人をたたきます。
「自分はやっているのに(その人はやっていない、だから「ずるい」)」「自分は我慢しているのに(その人は我慢しない、だから「ずるい」)」。
その人がやらないにも理由があり、やれない理由があり、やりたくないことに正当性があっても、「ずるい」のです。我慢しないわけではなく、そうしなくてはならなかったからそうしただけであっても、やっぱり「ずるい」。
そして、「ずるい」といっている人たちは匿名である一方、言われる方の人は特定されます。
そこまで言われたら精神が持たない限度を超えると、言われる方の人は、命まで落とします。
戦争もそうだったのかもしれません。
匿名の人たちが、戦争に行かないことを許してくれない。家族が非国民だと言われる。村中が「ずるい」と言う。
何となく膨張した同調圧力が、戦争のきっかけかもしれないと思います。
誰も戦争をしたいとは思っていなかったのかもしれません。
「戦争をしよう」と自ら自分の名前と顔を出して言った人はいなかったとして。
匿名で「あの人、ずるい」と言う気持ちがたくさん集まると、予想を超えて、急速に状況が動いてしまうものかもしれません。
他国は「ずるい」ので、戦争に行かないのは「ずるい」と、戦争をすることが正しいことになってしまった結果、したくもなかった戦争が始まり、行きたくもなかった戦争に行かざるを得なくなったのかもしれないと思うのです。
自分だけ行かないなんて「ずるい」と言われて、自分だけではなく家族も村も圧力を受ける。親が自分の息子を戦争に行かせたくないのは当たり前なのですが、自分の子だけ戦争に行かせないなんて「ずるい」と言われるから。泣く泣く、送り出したことでしょう。
したくない戦争でたくさんの人が亡くなり、戦争が終わってから戦争なんてしたくなかった、と本心を言います。
本心を最初から実名で言う国民性があれば、何がどうなってあんな戦争が起こったのか、というようなことはなかったのかもしれません。しかし、無かったことはないでしょう。起こったということは、本心を実名で言う国民性ではなかったということです。
今また、日本人が、匿名性を使って、集団になって、あるいはネットで、それは「ずるい」と叩き潰しています。
言われた結果、耐えられないで誰かが死んだら、さっと、その場から一斉に立ち去ります。
日本人の平等は、何が何でも平等です。
PTA役員ができない理由があっても、団地の役員ができない理由があっても、簡単には認めてくれません。
どう考えても、やれない方に言い分がある状況であっても、「(やらないのは)、(やっぱり)ずるい」からです。
でも、それって合理的でない気がします。
でも、それは今に始まったことではなく、数十年前からありました。
そして、戦争の時も、そうだったのかもしれません。
「こうだから、こうなる」「こうだったら、こうでしょう」というのが理屈だと思います。
「こうだったとしても、結局(ずるい)」みたいなことは、かえって理屈が通らないのではないでしょうか。
「あの人、ずるい。(「ずるい」ではなく、もっと違う言葉がフィットするのかもしれませんが)」と思う時は、相手は「ずるい」のではなく、相当な理由がある場合も多いのではないかと思います。
いくら相当な理由があっても、どう言ってもきく耳を持たない人たち。きいてもらえないから、人は絶望をするのでしょう。
子供の頃習った、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」(日露戦争中発表された)の詩を覚えています。
戦争に行く弟に「死なないで」。その時代に、同調圧力に屈せず、反戦を口にしたのは、どれほどの勇気だったことでしょう。
人からどう言われても、言われなくても、私は私自身が「こうしよう」と考えることをやっていこうと思います。
皆さんは、人から何か言われたら、それを「やめますか?」それとも、それでも、それを「やりますか?」
私は人から何か言われてもやっぱり「やろう」と思うことを、やっていこうと思います。
カズシン株式会社
代表取締役 山内和美