カズシン・ブログ

カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。

勝手にちょっと哲学。心と夢。人間とロボット。人にしかできないこと。

2021.05.06

小学生の時、いつだったかは記憶が定かではないですが、中学年の頃かもしれません。私は、「心(ハート)は胸(たとえば心臓)のあたりにある」と考えていた気がします。

しかし、その頃一つ年上の兄は、「胸に心があるわけではない。脳が・・・」と言ったのを覚えています。

兄は、すでに「脳」について知識を持っていたのでしょう。

半世紀くらい前のことですから、「脳」についての研究はまだ今のように進んでおらず、素朴に「心(ハート)」の位置は「心臓」あたりをイメージしていたとしてもおかしくない時代です。子供であれば、なおさらです。

それから、時代は変わって、心をイメージする時、胸のあたりではなく「脳」を気にするのが当たり前になってきたように思います。

私は「脳」のことは今でもほぼ知りません。いろいろな刺激があって、見たり聞いたり食べたり触ったり、それらに反応して脳が情報を持つ。間違っているかもしれませんが、私が「脳」についてイメージするのは、そういう感じです。

反応によって、膨大な情報が脳には蓄積されていくのだろうと思っていますが、私が思い出せる情報はわずかです。勉強を始めほとんどのことは、さっきのことも忘れていきますし、予定は手帳を見ないと不確かです。たくさんの情報を取り入れているはずなのに、それらのほとんどは覚えていないか、正確に思い出せません。

過去を振り返っても、思い出す出来事はおよそ決まっています。しかし、脳は私が記憶していると思っているより多くの情報を持っているのでしょう。

眠りの中で夢を見ます。夢の中の出来事の一部を覚えていることもありますが、目覚めると何も記憶に残っていないと思うこともあります。

しかし、夢で見たことは、目覚めてから私に影響を与えていると思うのです。

夢の中の出来事が無意識であるとすれば、その無意識が目覚めてからの現実を左右するのかもしれない。半面、現実の日常で起こった出来事が夢に影響を与えているということも言えるのでしょう。いずれにせよ、眠る前の私が眠り夢を見ることによって、目覚めると、私は夢の中で得た新たな情報を獲得している新しい自分自身になっている。

見たり聞いたり、いろいろで、反応していくごとに、新しい情報を得て、私は日中においても新しい自分自身になっているのでしょうが。どちらかと言えば、夢見ることによって、私自身が変化させられている力の方が大きいのではないかと考えています。

眠ることは、一つの言わば「死」であるという考え方があるようです。

目覚めると眠る前と変化しているという観点から言えば、その通りだと思います。

目覚めた私が眠っている間に獲得した情報を元に、日常の問題を解決するということはあり得るでしょう。見たり聞いたり、入ってくるだろう情報のどの情報に呼び止められ振り向いてしまうのか、優先的に引き付けられるのか。夢から得た情報に日々経験が操作されているのかもしれないと思います。

どのような夢を見るのかさえ脳がコントロールしているとしても、夢で見た無意識がどのように新たな経験(反応)と結びつくのかまでも、果たして脳はコントロールしているものでしょうか。

無意識から得た情報で、知らずともあるいはそうと知りつつか、私は現実的な新たなチャレンジをするとしても、もともとその無意識を形成していたのは私の過去の情報であるとすれば、無意識も含めて、その全体が私自身のものだと思います。

私自身のものではなく、脳のものだとすれば、私はロボットのように脳によって動かされている存在になるのではないでしょうか。脳に情報を保管したり脳から取り出したりしていても、反応して情報を脳に送ったのは私とすれば、私が「先」だと思えます。

脳が、見るように、聞くように、と私に指令を送っているとしても。無意識の夢が脳の働きであったとしても。無意識(夢)の記憶がないのに(仮にあったとしても)、目覚めると、夢の続きを意識するとしないとに関わらず、現実世界でつながりをもって何かしているのだとすれば、夢を見る主体は私自身(脳ではなく)だと思います。

また、脳それ自体が夢見るというのも不思議な感じです。

夢を見る主体も脳だとすれば、そもそもたとえば人(脳)は、わざわざ眠る意味はないのではないでしょうか。脳で自己完結すればいいような気がするからです。

私は脳ばかりではなく、睡眠についてもわかっていません。

そのため表現が的外れになっているかもしれません。また、走り書きしているので、矛盾があるかもしれません。

 

ここまで書いたところで。

先ほど、宅配便の方の「ピンポン」が鳴りました。

転勤して東京を離れた長女から、お花が届いていました。少し早い母の日のプレゼントのよう。

プリザーブドフラワー(生花が基になって長期間保存できるもの)アレンジメント。ケースの中には、赤いバラ。一緒にムーミンのママがトレードマークの「赤と白のカフェエプロン」を付けて立っています。

とても可愛いです。

娘の幸せを願います。ムーミンのママ付きでお花を贈ってきたことには娘なりに意味があるのかもしれません。

 

私が不動産業で起業した時、お客様からプリザーブドフラワーをお祝いでいただいたことを思い出しました。先行きが分からない中での起業でしたが、ありがたいことにこちらのお客様に物件仲介させていただけたこともあり、今につながっています。

娘からの贈り物で、不動産の仕事に関しても、初心に立ち返る良い機会となりました。

 

さて、話を戻します。

「心」というものがあるとすれば、「脳」にあるのではなく。私は、無意識(夢)から目覚めて、無意識を生かして、現実の日常で問題を解決したり、前進させたり、時には悪化させたり、いろいろと実践している自分自身が持っているものだと思います。

「夢のおつげ」というたとえでは表しきれないものですが、現実は夢のおつげの生かし方で変わってくる、そういうことはあり得ると考えています。

夢など見ないで(見ていることなど知らず)ぐっすり眠るのが身体にも精神にも一番いいとも言われますが、夢を見るからこそ、人は主体的な存在であることができるのではないか。そう考えることがあります。

たんに気になる夢を見ることが続き、こういう気分になっているだけかもしれませんが、夢は現実に何かしらの影響を私に与えている気はやはりするのです。

私は、神秘とか宗教とか、占いなどは信じるところがないです。しかし、「夢」は興味深い何かを持っている気がしています。行き過ぎたり、深く掘り下げ過ぎたら、また違う領域にいってしまうので、ただ単に、興味深いもの。区切りはあり、おおかたこの程度までの話となります。

私の稚拙なこのような話よりも、研究されて正しく、本格的で、夢についての本質的な捉え方や、哲学、脳についての教えなどが世の中にはあふれていることでしょう。

私の話は、勝手気ままに。今日は、私が思うことが、こんなところだった次第です。

私にとっては、「夢」は、私自身も知らないうちに私の現実に作用している可能性があると考えている。そういう考えを持っている「私」ということになりますでしょうか。

 

ところで、ゴールデンウィーク明け。

仲介物件が少し前に動きそうな様子もあるので、がんばっていきたいところです。

皆さんは、お仕事ですか。まだお休みでしょうか。

緊急事態宣言の延長(東京)が決まりそうです。

長引くと、いよいよ、持ちこたえられない会社やお店、リストラで職を失う国民も出てくるのではないかと気になります。

いろいろ模索してもその模索がうまくいくことは難しいもので、案外少ないものかもしれません。今までやってきた商売や仕事を継続していけるのであればその方が、やはり他のことをするよりうまくいくというケースは多いものでしょう。

AI(人工知能)、ロボットが発達とともに、人がしていた仕事のかなりの部分が必要なくなるという話を聞きます。

昔、電車の切符切りの方がいましたが、自動改札機が普及し見なくなりました。

そういうふうに、世の中は変化してきていますが、今後、なくなる仕事は何なのでしょうか。不動産(物件)のマッチングもとくに人(仲介)がいなくてもできるのでは、ということも言われています。

そういう時代はくるのでしょうが、AIロボットは夢を見るのでしょうか。

人間は夢を見ます。仮に脳によるコントロールで見たり聞いたり、仮に反応することも情報も、脳を通しているとしても。夢で見たことが現実の世界に変化を与える(夢が影響し現実の動きが変化する)中で、平行して反応も変わる気がするのです。取り入れる情報にも変化が起こることでしょう。一つには、人間には生物として夢を見るという強みがあるとすれば、ロボットに同じ強みはあるのでしょうか。

無意識と意識の共存が人間だとすれば、ロボットにそれは可能でしょうか。

私は、ロボットと人間の違いは、そこにあると思います。

ロボットにも「心」(心のようなもの)は持たせられるという話もあるのでしょうが、それは、人間にとっての「夢」とか、欠かせない強みがあってのことでしょうか。

私は、人間は「夢」を見る存在だというところがロボットと違うのだと思います。

それが人間に「心」があるということだと思うのです。

心がある人間が目覚め夢を実践し成功し、一方、心がある人間が目覚め夢を実践した結果失敗する。そのちぐはぐな関係において、すれ違ったり、頼ったり、かみ合ったり、分かり合えなかったり。そういういろいろなことが生じる関係の中で、人間は、今日も疲れて、なんだか夢を見て。明日がいいことばかりではないのに、それでも、また明日何とかなるかもと悟って、明日気が付くと目覚めている。そういう繰り返しの日々に慣れていることも受け入れられるのは、今日と明日が違うと自分自身知っているからではないでしょうか。

今日のロボットと明日のロボットが(プログラミング)違っていたとしても、ロボットに「心」がないならば、「心」を使うことは人間に残される気がします。

具体的になくなる仕事はたくさんあると思いますが、「心」を使う範囲においては、人が実行しなくてはならない場面は取り置かれていくのではないかという気がするのです。

 

皆さんはいかがお考えになりますか。

 

カズシン株式会社

代表取締役 山内和美