カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。
2020.10.08
鬼平犯科帳が6巻目でストップしてから、日が経過しました。
6巻目の残りをそろそろ読もうかと思いつつ、見送る自分を確認します。
鬼平は「おもしろい」です。また示唆に富んでおり、名作であることは間違いないと太鼓判を押せる希少な物語です。
「おもしろい」のですが。昔からなんですが、私は、殺傷や拷問などが物語の中に入り込んでいる作品はどうも苦手です。
小説、映画、ドラマ、絵画いずれも苦手です。
そうは言っても、名作には、人間の恐ろしさが描かれる残虐なシーンの描写がつきものと言えるようです。
長い年月、本や映画などで目にしてきました。人間のなす事実としての理解は深まります。
『鬼平犯科帳』(池波正太郎)は、そういうシーンの描き方があっさりしており、細かい描写をあえてしていないので受け入れやすく、読み物としての「おもしろさ」に惹きつけられていました。
しかし、読む手を一旦止めてしまうと。おそらく自分自身の中にあった苦手感に滅入るのでしょうか。
殺傷シーンなどが出てくると思うと、再び読み進める一歩が遠く感じます。
この抵抗感をさらに乗り越えるというより、鬼平犯科帳の舞台となった「江戸」に興味が募ります。
私にとって、本題(テーマ)は、元々「江戸」だったようです。
下町が好きで、江戸文化に触れることができる環境に暮らしているのも、「江戸(東京)」が興味深いからでしょう。
「鬼平犯科帳」には、今も目にする地名などがたくさん出てきます。このあたりのことだったのだなあ、と知るのが楽しくて読んでいました。
「江戸」に気持ちが向かいます。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の言葉
「よく見聞きし分かりそして忘れず」に憧れます。
「鬼平」に魅せられる男性は多いようです。
相手や状況を公平に見て、心で人と話せる技量と人を見透かせる度量がある鬼平に、「なりたい」男(自分)と重ねるからでしょうか。
面倒見がよくて他人から慕われる鬼平は、「よく見聞きし分かり」の人だと思います。
よく見て、よく聞いて、そして分かる人です。関心を寄せてもらって話をきいてもらって、分かってもらえれば、人はうれしいものです。
そして、忘れないで覚えていてくれる人であれば、誰もが魅せられるでしょうか。
鬼平には、「よく見聞きし分かり、そして忘れない」タイプの人たちが持つ魅力があるように思います。
そういう人と出会い関わりが生まれると、その人から贈られる人情味や気配りや思いやりを受け取って、おおかたの人は心動いていくものでしょうか。
「よく見聞きし分かり、そして忘れない」人の強さは、ここにあると思います。
鬼平は剣術に卓越していますが、剣術の腕だけでは、盗賊を捕まえるお役目で成績を上げることは難しかったでしょう。
盗賊から足を洗った密偵の協力や、部下の懸命な働きや、家族の支えなど、いろいろな力を得て、捕り物が成功したのでしょう。
人心掌握術というものでしょうか。生まれつき持っている人もいるのでしょうが、多くは、挫折や、必要に迫られて、人間が成長する中で、目標達成意欲や解決志向から、身につけるようになる技術ではないでしょうか。
「ほとんど見聞きせず分からず、そして忘れる」人を想像してみると、鮮明になります。
「よく見聞きし分かるだけではなく、そして忘れない」人は、軸がぶれず、ポイントを明確にし、それゆえに、人の信頼を得られる人であるイメージが湧いてきます。
忘れっぽいところがある私は、「そういう人に私もなりたい」と思います。
長女が一人暮らしを始めてそろそろ二週間、あの子が小さかった頃のことを思い出します。
子供だったあの子に、あまり見聞きせず分かろうとせず、そして忘れることが多かった私自身を振り返ります。
時間も心も、おそらく何もかも、余裕のなかった時代を思い返します。
そういう日々の中で、子供と一緒に「陶芸」教室へ行きました。
私は子供が慣れてきた頃(半年ほどで)やめましたが、娘は始めた小学一年生から卒業の六年生まで、陶芸教室に通い続けました。
今、家には、あの子がその頃作った茶碗や湯飲みやお皿や置物が残されています。「たくさん作ったんだなあ」と思うと、その物に込められた娘の気持ちが浮かび上がるような気がしてきます。
雨の日も冬の日も、きっと昨晩涙が枯れなかった日も、通い続け、作り続けた陶芸の作品。一つ一つに、幼かったあの子の強さが見えてきます。喜びや希望も見えてくるようです。
十分なことをしてやれなかったと思う後悔に、娘は「十分してもらった」と応えてくれる強さがあります。
強さと優しさ。しかし、時には、優しさが行き過ぎて、弱さになることもあるのではないでしょうか。「強い人は優しい人」しかし、「優しい人は強い人」と言い切れない現実に、達観できない、未熟な自分を感じます。
娘は、強くて優しい大人になったのでしょうか。
私の手元を飛び立った長女、数年すれば飛び立つだろう次女に、今から向き合うのは遅いのかもしれません。しかし、何事も遅すぎるということもないとも思います。できなかった時にはできなかった理由があり、できる時にはできるようになった理由があるものです。
「過去は捨てたもの」と、どこかで読みました。どこで読んだかは忘れてしまいましたが、いい言葉だと思います。
過去は自分が捨てたものである限り、未来は自分で作れるのです。過去に囚われて未来を放棄するより、過去は自らの意思で捨て去ったものであり、自らの意思でこれから未来を創ると思えることは、希望を育みます。
よく見聞きし分かりそして忘れず、では、やっていかれなかった、やっていかれないのが、世の中の多くの現実である気がします。
過酷な日々というのは、どこかで、頭の中で「ぐるぐる回る」何かがあるのではないでしょうか。いえ、本当に過酷であれば、そのように頭の中で何かを考える余裕などないのかもしれません。
鬼平ほどの人であったとしても、義理の母親との不仲などを理由に「本所の鉄(ほんじょのてつ)」と異名をとり悪さをしていた頃は、考えが「ぐるぐる回って」いたのかもしれません。
「ぐるぐる回る」日々の中でも、武士道という一本道に守られていたから。肝心なのは、覚悟でしょうか。
覚悟の持つ意味は大きいです。何事も覚悟を決めた人はやり遂げる可能性が高まるものだと、そう思います。
そして覚悟は何らかの犠牲を伴うものだと思います。鬼平の覚悟は、命の危険という犠牲を伴います。
ポイントが明確になる人は、犠牲にするべきものと覚悟を交換にしている気がします。鬼平で言えば、命の犠牲は覚悟の上、ということ。
覚悟を決めた時、人は「シンプル」に生き方を決められ、自分がすでに持っているものの最小限で生きていこうと胸を張れるように思います。
江戸の時代、男性は男性として生き方の覚悟をし、女性は女性として生き方の覚悟をした。
男性として生きようとすれば迷いは少なく、また女性として生きようと思えば、そう思う限りにおいて迷いは少なかったという面も見えてきます。
江戸という時代と、現代もなお、男性が「男らしさ」を良しとし、女性には男性から見た「女らしさ」が求められ、女性の中にはその「女らしさ」を普通に受け入れ男性を支える方も多くおられます。
だからもあるのでしょうか、鬼平が現代も男性たちの憧れになり得る理由の一つには。
「女性にはわからない」のが鬼平の世界、人生観だという一つの分野もあります。
しかし、「よく見聞きし分かり、そして忘れず」は、男性だけに求められるのではなく、女性にも求められる性質と言えそうです。
鬼平の中には、実は、人間がいるわけです。男性的な人間だけではなく、普遍的な人間像が刻まれています。
男性とか女性とか、そういう性別で、決め付けられない時代にすでに入っているのでしょうか。
そうであればいいな、と思います。
決め付けられるほど人にとって納得がいかないことはないでしょう。
人がそのことを言う、人がそう行動するには、必ず前提があります。その人にとって前提があります。
前提に目を向けず、前提に心を馳せず、他人を決め付けるのは、決め付けられた人の心を痛めます。
だから、「決め付け」は、人間が人間にすることとしては、見聞きせず分からない人がすることになるでしょう。
鬼平は、決め付けません。一部非情な盗賊の悪事を決め付けることはあっても、弱い人間の良心を救い上げようとします。
決め付けない人は、様々な異なるタイプの人から全般的に慕われるようです。鬼平はそのような人間性で描かれています。
そういう人間性に、男性も女性も性別は関係ないでしょう。
男だから、女だから、の決め付けに自分自身も縛られて、自分が行きたい道を諦めて、変えてしまった人は多いのではないでしょうか。
女性だけではなく、男らしさを求められた結果男性の中にも。
家族から、他人から、いろいろな環境において、不本意に決め付けられてしまったとしても。優しさゆえに、気弱さゆえに、自分の意志(本心)を保つことを諦めて、家族や他人の目を受け入れて自分も自分自身を決め付けてしまった。その結果だから、その道も自分自身が選んだ道と言わざるを得ないのでしょう。
どっちみち言い訳できない道を行くのであれば、言い訳したくて苦しくならない、自分自身が元々行きたいと思っていた道を行った方がよさそうです。男も女も関係ない。自分自身の道を自信をもって進んでいけば、なりたい人になれるのでしょうか。
性別や他にも諸々の決め付けに従ってしまって進んだ道でも、きっと、苦しみは多かったとしても、行き着くところは、自分の道にたどり着き、なりたい人になれるのでしょうか。たとえ寄り道は長くても、自分の道を苦境においても見つけよう、聞こう、分かろう、そしてたどり着いたら忘れない、そういう本能が備わっているタイプの人はいると思います。
本意であっても不本意であっても寄り道をしてしまい、「ぐるぐる回って」時間が経過してしまう。
それでもいつしか、「よく見聞きし分かり、そして忘れず」自分の道にたどり着く。苦境に強い人がいます。
苦境に強いと、めげてしまって立ち直れない、ということがありません。
ぐるぐる回って苦しい中でも、知恵を絞って考えているから、いつかポイントを見つけ出し長く続いた苦境から抜け出せる。苦境に強い人は、そういう力を備えているのかもしれません。
カズシン株式会社
代表取締役 山内和美