カズシン株式会社 代表取締役 山内和美のブログ
不動産業界20年を超えて、この経験に基づく…取引のこと、物件のこと、人間のこと。
宅地建物取引業者(不動産業者)カズシンの代表 山内和美が思うこと。
2020.03.29
ドイツの哲学者 イマヌエル・カントの「純粋理性批判」の和訳を読んだことがあります。ずっと昔、学生時代。
このブログで、「時間と空間」(「純粋理性批判」で「時間と空間」について書かれていました)について、今の私がどう感じているのか、何回か書いたことがあります。
「建物の老朽化」を感じる私自身がいます。
自分自身が時間であり、自分の中から時間がこみ上げてきて。老朽化していくだろうその建物を見る自分がいて。建物の中から「老朽化」があふれ出てくる。
そう「老朽化する(古くなる)」建物は、建物自身が時間を持っているような気がします。
私の時間は私が持ち、その建物の時間は建物が持つ。
私は老いていき、自分自身の老化を見ます。私の中で老化が起こり、私は老化した私の姿を確認します。自分が年をとったことに気がつきます。
建物は自ら老朽化を知るということはないでしょう。私はその建物を見て「その建物がどのくらい老朽化しているか」見当を付けます。
私自身の老いとその建物の老朽化は別々です。しかし、私がその建物を見ることによって、私はその建物と関わりを持ちます。その建物が教えてくれます。その建物が築どのくらいなのか、おおむね当たるケースもあれば完全には当たらないケースがあったとしても。その建物と関わり(関心)を持つことで、予想するのです。
予想が外れる時もあれば、当たる時もあるとして。私の中には、その建物がどのような状態であれば、おおよそ「このくらいの築年が経っている」という経験から出来上がった感覚があります。だから、何となく、見ると、わかるのです。私だけではなく多くの人が建物を見ると「古さ」に気がつくことでしょう。
ところで、経験からできあがった直観を「勘」というのでしょうか。
勘がいい、わるいというのは、経験の有る無しに拠るのでしょうか。予想をするというのは、下地となる経験があるから可能であるとすれば、何かを直観するということは、経験がベースになっているのでしょうか。どうもその経験は、自分自身の過去に体験した経験だけではなく、自分自身が物事をどう感じるかという感じ方の積み重ねも含まれている気がします。
感じ方が直観を決めているというか。勘がいいというのは、予想が当たる(予想に近い結果がある)感じ方をしているといった、「こうであればどうなる(はず)」という感じ方が他人より優位であることを意味するような気がします。
経験が未来を決めてくれるわけではないでしょう。
どれほどの努力をしたとしても必ず報われるわけでもないでしょう。
しかし、自分なりには多大なエネルギーを費やして、一杯いっぱいになるほどエネルギーを注ぎ込めば、あふれだしたエネルギーが壁を突き抜け、今までの努力の先に、結果が付いてきた「未来」を見ることができるかもしれない。
努力が報われるとは限らないけれど、投入した努力は大きな力になるかもしれない。そう思えるからこそ、がんばってやっていけるのだろうと私は思っています。
こうしたら必ずこうなる、という法則はあるような気がします。
秩序立っていることを法則とみての話ではなく、因果関係といいますか「結果あれば原因がある」、という観点からです。
「こうすればこうなる」とはやってみるまで実際にはわからないことも多いです。結果として、こうしたら「こうなった」ということからやり方が正しかったことを知るという感じがあります。だから、私は「見通す」という気持ちで、やってみるほかないのです。結果が当たればラッキーです。結果がよくなければ「失敗」ですがそれを糧にまた試みができます。
仮にいくつもの選択肢があったとしても、たった1つしか選べない自分がいて、その1つを選べば自分が必ず成功するというわけではないでしょう。
他の選択肢の方が成功する確率が高いと思われても、今の自分にはその選択肢が選べない、という場面はいくらでもあります。
自分は、自分が今選べる一つの選択をするほかない。その選択の先にある、成功か失敗かは、すでに決まっているのかもしれませんが、私に未来は見えません。
私のこれまでの経験や感じ方の癖(勘)といったところから、「厳しいけれど、ひょっとしたら、少しは成功するかもしれない」ということを拾い集めながら。失敗することも多いですが、その失敗を糧にしながら、諦めないで続けていけばどこかでひょっとして「成功するかもしれない」という思い込みに誘われて、気がつくともうずいぶん年をとっていた。私は自分のことをそういう性質を持っているように理解しています。
皆さんは、どのようにご自身のことを理解されていますか。
私は、この世の中の法則や人間の性質を自分なりに納得できれば、自分なりのやり方で、何かを成せる(なせる)ような気がしていました。
しかし、実際はどう思っているのでしょうか。
何かを成せることは、自分自身の納得感とはあまり関係がなくて、単に成せたという結果であり、その結果までの過程(プロセス)が結果につながったということにすぎないように思われるのです。ただし、結果やプロセスを想像するのに、納得(経験)が有効に働くということはあるように思います。
なおも、納得感や腑に落ちる感じは無駄ではないと思います。選択や結果に影響を与えると考えているからでしょうか。
「時間と空間」について、何度か書いてきました。
その中で「私の生が終われば、私の時間も無くなる」といったことも書きました。
たしかに、私の時間は無くなるのかもしれないのですが。
ここで思い出しました。以前、私の知り合いに尋ねてみたことがあります。
「あの世はあるとお考えですか?人間は死んだらあの世に行くという考えがあるようです(尋ねているこの私はそういう考えを持っておりませんが)。幽霊とかお化け?とか、信じますか?」
その方は、「あの世があるかどうかはわからないが、人間が死んだとしてもその人の(髪の毛とか)いろいろ小さなものがこの世のあちこちに浮遊して残るということはあるでしょう。だから、それをその人の霊だと考えるならば、そういうこともあってもおかしくはないのではないでしょうか。」(正確には再現できませんが)「おばけに会ったら「こんにちわ」って、挨拶したらいいですよ」その人は言いました。
私の時間は私の生の終わりとともに無くなるのだと、今日も私は、まだそう思っています。
しかし、私の何かが少しだけ残り、とくに私の子供たちへ引き継がれた何かは残るということは、考え方によっては起こるのでしょう。
この先何十年か私が生きたとして、私の考え方も変化し、世の中の考え方も、法則も新しく見つかり、そういう様々で、私の思う「空間と時間」といったものは、今日の私とその未来の私では、全く違うイメージになっているのかもしれません。
時々また何か私も思うのかもしれません。
この先何かが変わり、私も変わり、私の見方や考え方も変わるとして、そうであれば変わっていく何かを止まりながら考えることはもはや得策ではなさそうです。
私は長く「この大地」にしっかり立っているイメージから自分自身の「自信」を開発できないものかと、幾度もチャレンジし挫折してきたような気がします。
ここへきて、「変化していく自分」が当初から「自信」を含んでいる気がしてきます。
悩んだり苦しんだりして、人は変わっていきます。いい経験ばかりではなく、つらい経験を乗り越えて、向かい合うことで、人は次の段階へ進むことができるように思われます。
経験の中で変化し、変化できるところまでたどり着いたところで、その都度人は「自信」を自分の中に植え付けて、「変化」を受け入れるごとに「自信」の木は大きくなるような気がします。
「そのままで」「ありのままで」「変わらないものこそ」という考え方もあるでしょう。
しかし、自然に考えれば、私は「老化」が避けられないように、様々な経験の中で「変化」します。
変化していく私自身がすでに「自信」を含んでいると感じます。
つまり自分を信じるということは、様々な関わりの中で起こる喜怒哀楽の感情や時間的な経過とともに起こる肉体的な変化や、経済的なこと、環境のこと、それら全部、いいこともわるいことも、『「変化」が自分自身であると知る』ことであるような気がします。
変化の経験は人間であれば自然に備え持っているものであるとすれば、人は本来的に「自信」を自らの中に持っていることになるのでしょうか。
人は「変わらないでいよう、ありのまま、このままでいよう」と願ったとしても、変わらざるを得ない存在だと思います。
『三つ子の魂百まで』であったとしても。三歳の子の魂と百歳の魂は似ていても変化しているでしょう。
変わろうとかあえて考えなくても、変化(経験)そのものを拠り所にしていけばかえって「自信」をなくすこともない。そう思えてくるのです。
これから仮に何十年、私はどれほど「変化」することでしょう。
変化こそが私自身であり、変化することが私の宿命であるとすれば、生きることは変化すること。
カズシン株式会社
代表取締役 山内和美